我和我中国的朋友

我与中国的渊源大概是在28年前吧。当时我还是小学六年级的学生,那个时候很喜欢看横山光辉的《三国志》的电视漫画剧和玩了很多KOEI公司的《三国志》系列仿真游戏。也正是因为这些漫画剧和游戏的影响再加之当时小学时代也正处于人格和一些价值观形成的重要时期,《三国志》中各种各样男儿的活法儿及他们的人生价值趋向对于当时的我要将来成为什么样的人起到了典范与引导的作用。我与中国的缘也由那时开始。

实际上我的母亲对中国人并没有好感,理由是大概在70年前,我母亲的父亲,也就是我的外公,当时在高知县经营一家土木工程公司, 体力劳动者除了日本人以外还雇用过很多韩国人和中国人。母亲讲那个时侯在公司会经常听到一些关于中国人很狡猾喜欢偷懒之类的言论。也正因为如此,我的母亲对中国人并没抱有好的印象。很遗憾的是我的母亲在15年前因为癌症去世了,但如果我的母亲现在还活着的话,我可能会在家和母亲一起吃饭时,跟她聊聊我的中国朋友,讲讲我认识的中国朋友的事,或许我母亲对中国及中国人的看法会因此有所改变。

这或许是日本人不好的地方,没有去过中国的大部分日本人会武断的认为日本是亚洲最发达的国家,而我在2011年第一次去中国的大连和上海的亲身经历,也因此改变了我曾经这样的想法。在去过了上海的思南公馆、新天地、田子坊看到了在那些地方的中国人的生活方式呀,基本上和日本没有很大的差异,这使我不禁感到近年的中国是否也渐渐的国力增强,中国是不是也逐渐成为发达国家了呢等产生了疑问。同时作为日本人的我对此也稍微感到危机感。这也使得我以前对中国微妙笼统的看法,有了很强烈的改变。

我认为日本人的民族性很单一、性格上也没有很大的差异,是很均衡的人种。恰恰我再接触很多中国人后认为中国人刚好和日本人是相反的民族。基本上我接触的中国人都是受教育水平、生活水平比较高的中国人。跟这些中国的朋友的接触使我强烈的感触,价值观不应该以国家为基准去评价而应该在个人为基准去认知。同时也强烈的感触到这些朋友的价值观和我的价值观并没有很大的差异。我认为在日本这些中国人正是因为他们不在自己的祖国他们的价值观与日本人的价值观不同是很自然的事情,并且他们也没有必要去和日本人相同。但我对与他们不是日本人却与日本人有很多相似的价值观的方面倒是感到很意外。而这到底是什么原因呢?

对此我认为是应该是人性观(view of human )方面的影响。当然关于人性论有各种各样的论点。人性观(view of human )当中关于价值观的部分,社会是被个人的价值观差异集合起来形成的呢?还是个人的价值观差异是被社会所影响导致的?我想丛这个角度去考虑上述的人性论的问题点。

对于日本人认为很重要的价值观部分,例如自己的幸福是在以他人的幸福为前提下建立起来的、相信他人等等的价值观,我的中国朋友对此点也有相同的共鸣。但我对每个人都会有自己的价值观这一面,再加之日本人和中国人有文化上的差异的原因, 但为什么他们也有同样的想法呢对此我稍有疑问,思考过后,就刚才陈述的论点中我比较赞成个人的价值观是在社会的影响下形成的这一观点。

「个人的价值观是在社会环境的影响下形成的」也就是说在同样的教育水平、同样的收入、同样的生活方式的社会环境下,会形成同样的价值观。人总会想要按照根据自己的想法去生活,但人总是不自主受到社会环境的方方面面的影响,也就是说其实人还是不能有意识的去接受社会环境的影响,所以我认为人的价值观是在社会环境下形成的。

如果按照我的人性观(view of human )去讨论今后日本人和中国人的价值观趋向话,日本人的价值观或许将会和中国人的价值观越来越接近。对此我也很是期待。同时这也是我想对我母亲说的话。

 

私と中国人の友達

 私が初めて中国を認識したのは今から28年ぐらい前の小学校6年生ぐらいのときでしょうか、横山光輝の漫画三国志とKOEIのシミュレーションゲーム三国志が大好きでした。様々なタイプの男の生き様が、自分はどんな人間になりたいという人間形成の手本になったと思います。

 私の母は実は中国人のことをあまり良く思っていませんでした。理由は母から聞いたことがあります。今から70年ぐらい前、母の父、つまり私のお爺さんは高知県で土木の会社を経営していました。そこで肉体労働者を日本人以外に中国人・韓国人を雇っていたそうです。母は当時少女でしたが、父の会社で、中国人がズルかったりサボったり悪いことをするのが耳に入ったと言っていました。だから母は中国人のイメージが良くありませんでした。15年前に母を癌で亡くしていますので、私はもし母が生きていたら私の中国人の友達をどう説明したのでしょう。たぶんこんな感じで、家で一緒にご飯を食べながら話したと思います。

私は2011年に初めて上海と大連に行きました。つい最近のことです。日本人の悪い癖ですが、多くの人が日本はアジアで1番進んでいる国だと漠然と思っています。2011年に中国に行くまで、私もその多くの人のうちの1人でした。思南公館や新天地や田子坊に行って、そこに居る中国人の顔つきや行動を見て、ヤバい中国の方が進んでいるかも、という危機感を持ちました。私は漠然と中国を認識するのではなく、強烈に認識することになりました。

日本人は単一民族で格差もなく実に平均的な人種だと思います。対して中国人は日本人の真逆だと思います。基本的に私が接する中国人は教育レベルも所得も生活スタイルも高い人たちだと思います。そこでも私は強烈に、国ではなく今度は中国人を認識することになります。私が強烈に認識したことは価値観が私とあまり変わらない、ほとんど一緒ということです。外国に行ってるんだからその国の人と価値観が合うわけないのが当たり前と思っているのに、意外にほとんど一緒なことに違和感がありました。

そこで思ったのが「人間観」についてです。人間観の論点は様々ありますが、社会は個人の集合で作られているのか、それとも個人は社会に作られているのか、という論点で考えたくなりました。

自分の幸せは他人の幸せが前提であるとか、他人を信じるだとか、日本人が大切にしている価値観をどうして共感してくれるんだろうか。個人の価値観はそもそも違うし、日本人と中国人なら更に違う。なのにほとんど一緒なところから、私は先ほどの論点の後者の立場を取ることで納得しています。

「個人は社会に作られている」つまり同じ教育レベル、同じ所得、同じ生活スタイルという社会(環境下)では、同じ価値観の人間が出来上がるのだということです。人は自分の意思で生きていると思いがちですが、かなりの影響を環境から受けていて、それは自覚的ではありません。

私の人間観で説明すると、今後日本人と中国人の価値観はもっと似てくると思います。それが楽しみなんだ。そう私は母に話すと思います。