用二元论去解释人性的时候,有各种各样的观点。自古以来有「性善说(源于孟子)」、「性恶说(源于荀子)」之类的看法,但是我想用「将不幸作为原动力的人」和「将幸福作为原动力的人」这种观点去试着分析一下。

这是在我去听会计师和律师的对谈的时候的事。「将不幸作为原动力的会计师」和「将幸福作为原动力的律师」,用这种观点去听了两个人的对谈之后,两个人所说的话一下子在我的头脑之中被很清楚的整理了。虽然两个人都是同样处于帮助别人的立场,但是双方的行为的原动力却完全相反了。

用这种观点去试着考虑一下,其实实际上大多数人不都是正用着不幸来作为原动力的吗?当然这也没什么不好的。但是,在和「将幸福作为原动力的人」去做比较的时候,就会发现「将不幸作为原动力的人」在很多方面会逊色很多。

「将不幸作为原动力的人」是在自己的内心总有着那么一些自卑感。为了想克服这些自卑感,才能专心并坚持努力于某件事或某个目标,并想成为且变成了指导他人的立场的人。不是吗?

另一方面,「将不幸作为原动力的人」对自己充满了自信,于是在自己的内心没有自卑感,对人对己都不会感到不满。所以,并不是想将自己的弱点归零而去克服什么。相反,正是因为想更纯粹更自然地将自己感受到的幸福更加扩大化而去回报而去努力,从而成为了指导他人的立场的人。不是吗?

上述两者的决定性不同点是「自我」的存在。「将不幸作为原动力的人」会扪心自问在自我心中是否有着不满。而「将幸福作为原动力的人」只会注目自己的目标,并不会去在意对于自己来说是不是有不满。换言之,「将不幸作为原动力的人」或许是抱着以自己为本位这种思想。因为理由是如果没有不满的话,就没有了原动力就不会去努力什么了。

「将不幸作为原动力的人」当想克服自己的自卑感的那个部分变成了幸福的时候,便没有了原动力。于是又变得需要寻找自己其他部分的自卑感。也就是说,明明幸福就在那里,却不能真实的体会到幸福的滋味。不是吗?另一方面,「将幸福作为原动力的人」正是因为能真实感受到幸福并为了将自己的幸福扩大而去回报去努力,就犹如滚雪球一般,幸福会越变越大。不是吗?乍一看,好像将自己置于不幸的低谷的时候会更能使出至今未有的力量。当然,我并不认为这是一种不好的做法。然而,在和「将幸福作为原动力的人」去做比较的时候,就会发现「将不幸作为原动力的人」在很多方面会逊色很多,这就是我的结论。

最后,对于上述两者的行为,想谈一谈第三者所感受到的想法。如果帮助别人的动机是源于为了克服自己的自卑感的话,被帮助的人会怎么想呢?是不是会感到这些行为是在有那么些不够纯洁的动机下而驱使的行为呢。如果想从纯粹而自然的出发点去帮助别人的话,相对于「将不幸作为原动力的人」,还是「将幸福作为原动力的人」的行为从第三者的角度来看的话会感到更美。

人を二元論で捉える時、様々な切り口があります。性善説・性悪説なんかがそれにあたると思いますが、私は「不幸せを原動力にする人と、幸せを原動力にする人」という切り口で考えてみたくなりました。

会計士と弁護士の対談を見に行った時のことです。不幸せを原動力にする会計士と幸せを原動力にする弁護士という切り口で聞くと、二人の話が頭にスッキリ整理されて入ってきました。人の役に立とうとする行動は両者同じなのですが、両者の原動力は正反対でありました。

こうゆう切り口で考えてみると、実はほとんどの人が不幸せを原動力にしているのではないかなと思います。それは別に悪いことではないと思います。しかし、幸せを原動力にする人と比較した時に、多くの面で美しくないのではないかと私は思うのです。

不幸せを原動力にする人は、自分の中に何かコンプレックスを持っています。それを克服したい一心で何かを継続して努力し、人に対し指導的立場がとれるようになれた人が多いのではないでしょうか。

一方幸せを原動力にする人は、自分の中にコンプレックスを持っていないので、中にも外にも不満がありません。自分のマイナスをゼロにするという意味で何かを克服したいのではなく、純粋に自然に、受けた幸せを更に大きくしてお返ししようと努力し、人に対し指導的立場がとれるようになれた人が多いのではないでしょうか。

上記で決定的に違うのが、「自分」の存在だと思います。不幸せを原動力にする人は、自分の中に不満があるかがポイントです。幸せを原動力にする人は目標があるのみで、自分にとって不満かどうか問合せるプロセスがありません。ある意味、不幸せを原動力にする人は自分本位かもしれません。なぜなら自分にとって不満がなければ何もしないわけですから。

不幸せを原動力にする人は、自分のコンプレックスの克服によりその部分が幸せになったら原動力がありません。また別の自分のコンプレックスが必要になります。つまり幸せがそこにあるのに、幸せを実感することができないのではないでしょうか。一方、幸せを原動力にする人は、幸せを利用し更に大きくしてお返ししようとするので、雪だるま式に幸せが大きくなるのではないでしょうか。一見不幸のどん底に自分を落とした方が今まで出したことないチカラが出る気がしてしまいます。それは別に悪ことではないと思います。ですが、幸せを原動力にする人と比較すると美しくない、というのが私の結論です。

最後に人の受ける印象についてです。人の役に立とうとする動機が、その人のコンプレックスだったら人はどう思うでしょうか。何か汚いものを原動力として動いている印象を受けてしまいます。純粋に自然に人の役に立とうと思った、幸せを原動力にする人の方が、誰が見ても美しいと思います。